一人ひとりに適した「結果を重視する不妊治療」にこだわります【医師 浅田 義正】

運命の出会いに導かれ、生殖医療の道を邁進
ー浅田先生の経歴と産婦人科医を目指したきっかけを教えてください。
私は幼少期から工作やものづくりが好きで、最初から医師を目指していた訳ではありませんでした。高校卒業後は一浪して早稲田大学の理工学部に進学し、メーカーでロボットを作りたいという夢を抱いていたのです。
ところが、当時はオイルショックの影響を受け、大卒でも就職するのが厳しい時代だとされていました。そういった時代背景にある中、東京の下宿先で出会った同期の仲間が医学部を受け直すために励んでいた姿に感化され、「医師になれば故郷の愛知県に帰っても、就職先に困らないだろう」と考え、私も名古屋大学医学部を受け直すことにしたのです。
無事に医学部に進学し医師の道へと進んだものの、私はもともと医師の家系出身ではないこともあり、何科の専門医を目指すべきなのか、全く思いつきませんでした。
具体的な目標が定まらないまま、まずは救命医療の技術を身につけようと、救命救急センターのある病院で内科医として勤務していた頃、16歳の白血病患者の少女を担当したことが医師としての大きな転機となりました。
血液のがんとも呼ばれる白血病はまだ「不治の病」とされていた時代で、私は治る見込みのない患者さんに対して、看取り治療のようなことしかできませんでした。2日に1回、ドナーから血小板を採取し、輸血を行う治療は大変な作業を伴うものでした。こうした中、少女が急変して亡くなった時、私が真っ先に思ったことは「やっと終わった」という安堵感でした。
人の死が身近にある環境の中、診察や研究に追われ、ハードワークが続く日々で心身共に疲弊し、私は医師として大切なことを忘れかけていたことに気づきました。

患者さんの死を目の前に、そんな思いを抱いた自分自身に対する怒りや嫌悪感は日増しに強くなり、「このままではいけない」と気づき内科を辞することを決意しました。
救えなかった命に対する自責の念に駆られたことを機に、「しっかり命と向き合える医師になりたい」と考えを改め、新しい命の誕生に関わる産婦人科医に転向することしたのです。
ー生殖医療に携わるようになった経緯をお聞かせください。
外部の病院で産婦人科医を2年半勤めた後、博士号を取得するために名古屋大学医学部附属病院へ戻りました。最初は周産期の研究をしていましたが、1年ほど経った頃、生殖内分泌医療分野の人手が足りないという理由で、不妊治療へ人事異動になったのです。
自分から望んで不妊治療の世界に飛び込んだ訳ではありませんが、結果的にはこの人事異動が、私の人生を大きく変えたといっても過言ではないと思います。
一方、私は内科に所属していたということもあり、大学病院に戻った直後から、研究と並行して更年期を治療する健康外来も担当していました。更年期の治療は、内科的な要素も多く含まれていますからね。
1990年代初頭の当時は、更年期医療や生殖医療の研究が国内ではほとんど進んでおらず、教えを乞う先輩医師もいない中で、一から自分で勉強しなければならない状況でした。健康外来と不妊外来を担当していた10年間は、本当に大変でしたね。
しかし、この状況下で研鑽を重ねるうちに、「生殖医療は面白い」と思うようになり、もっと学びを深めたいと思うようになったのです。
その後希望が叶い、39歳の時にアメリカへ留学することになりました。留学先は、アメリカ初の体外受精専門施設で、初めてヒトの顕微授精に成功したという論文が出た時期でした。
後に私のライフワークとなる顕微授精との出会いも、この留学がきっかけでした。
採卵から移植まで、卵を取り扱う際はパスツールピペットというガラス管が使われます。顕微授精のピペットづくりは、顕微鏡下で行わなければならない精密な作業で、工学的な技術が必要です。同じ研究室のアメリカ人は、手先が不器用な人が多かったため、少年時代から工作が得意だった私の器用さが大いに役立ちました。
英語は苦手でしたが、ピペットづくりが得意だったことが幸いし、私は顕微授精の研究チームに溶け込むことができたのです。

顕微授精の研究は、臨床に応用するというよりも、細胞膜を破って精子を入れる顕微授精操作の安全性を検証するなど、さまざまな観点で行うものでした。この経験を通して受精率や安全性を上げるための技術を習得できたことは、かけがえのない財産になっています。
2年間の留学を経て大学病院に戻った後、私は名古屋大学医学部付属病院の分院で、顕微授精に関わることになりました。毎月25人ほど、年間300人くらいの患者さんを担当し、日本で初めて精巣精子の顕微授精の妊娠に成功したのもこの頃です。
振り返れば、私の医師としての人生は紆余曲折の連続で、敗者復活戦のように試される出来事ばかりでした。
医療について高い志を抱いていたわけでもなく、周囲に流されるような形でこの道に進んだ私が、天職とも言える生殖医療と巡り合えたのは、さまざまな偶然と必然のおかげです。
本当に面白いと思える仕事に出会い、一生を捧げる覚悟ができたからこそ、今の私があるのだと思います。
高度生殖医療の灯を未来へ引き継ぐ者の使命
ー個人でクリニックを開業することになったきっかけを教えてください。
開業することになったきっかけも、実は私の意に反する経緯でした。
名古屋大学付属病院で顕微授精に関わりながら、いつかは国からグラント(研究費)をもらってまたアメリカに留学したいと目論んでいたのですが、当時の上司が教授戦に敗れ、私も大学病院を辞めざるを得なくなってしまったのです。しかしながら、先ほどお話しした通り、大学病院で私が担当していた不妊治療の患者さんを放っておくことはできません。私の顕微授精を待っていてくれた患者さんは約1年分300人おられました。
幸運にも妻の実家が産婦人科だったおかげで、その一角を間借りし、1人で不妊センターを開設することができました。
その後徐々に患者さんが増え、2004年に現在の「浅田レディース勝川クリニック」を開業し、現在に至ります。
東京都港区、愛知県名古屋市、春日井市にそれぞれ不妊治療・体外受精専門のクリニックを開設
開業当初は、顕微授精に取り組んでいるクリニックも少なく、遠くから訪ねて来られる患者さんも多くおられました。
今でこそ、体外受精の認知度は上がりましたが、その頃はまだ「顕微授精で、障害を持った子どもが生まれるのではないか」などといった患者さんからの不安の声や、不妊治療に関する世間の偏見も強く、見えない敵と戦っているような雰囲気すら感じました。
不妊治療中だということを周囲に知られたくないという患者さんが多くいたことも事実です。
そんな時代においても、「自由診療という高額な医療費を払ってでも我が子を抱きたい」という患者さんの強い思いがあったからこそ、「私たち医師も真剣勝負で挑まなければならない」と覚悟を決めて、治療にあたることができました。

その想いは今でも変わりません。不妊治療は患者も医師も真剣勝負、誠実にのぞむべきです。こうした思いから、生殖医療を持続的にするため、医療や品質管理の基盤を整えなければならないと考え、当院では、全ての工程の手順書を作成し、ISO9001を取得することにしたのです。
70歳になった今、私にできることは、「臨床」「研究」「スタッフ教育」を3本柱に、高度な生殖医療を未来へつなぐことです。日進月歩で進化を続けた生殖医療がより発展するために、これからも挑み続けたいと思っています。

ー不妊治療で悩む患者さんへメッセージをお願いします。
不妊治療を受けている方の中には、他の家庭のお子さんを見てつらい、悲しいという気持ちになる方もおられます。授かりたくても授かれないという状況から湧き上がるその気持ちもよく分かりますが、自分の未来の姿だという気持ちで前向きに受け止め、不妊治療から卒業する励みにしてほしいと思っています。
流産を経験した人は、「自分ばかりが不幸だ」と思われるかもしれませんが、妊娠判定で陽性になったということは、考え方を変えれば、「目標に一歩近づいた」ということでもあります。
不妊治療は、人によって期間の長さが違うにしても、できるだけ早く結果を出して、治療から卒業してほしいと願っています。
時には治療が辛く、心が折れそうになることもあるでしょう。それを乗り越え、目標を叶えるため、これからも患者さんを精一杯お支えしたいと思っています。

患者さんからの手紙が一番の癒し
ー浅田先生のリフレッシュ法を教えてください。
若い頃は、スポーツなども楽しみましたが、古希を迎えた今の楽しみは、お子さんに恵まれた患者さんからいただいた手紙を読むことです。本当に幸せそうな様子で、「この仕事をやっていて良かった」と心から思います。
また、2人目の不妊治療で来院する患者さんの中には、先の不妊治療で生まれたお子さんを連れて来られる方もいます。「あの時の卵が、この子に育ってくれたんだ」と思うと、こんな奇跡のような命の誕生に感激し、喜びもひとしおです。
お母さんとお子さんの元気な姿を見ることが、私にとっての一番の癒しであり、リフレッシュ法です。
(取材:2025年1月)
本記事は、取材時の情報に基づき作成しています。各種名称や経歴などは現在と異なる場合があります。時間の経過による変化があることをご了承ください。